「走ることについて語るときに僕の語ること」
という本が見つかった。
私は読む本を選ぶときに「あとがき」を見る癖がある。
この本の最後の章の末尾に、自分のお墓に下記のように刻んでくれと書いてある。
村上春樹 作家(そしてランナー) 1949-20XX 少なくとも最後まで歩かなかった |
あんなに忙しいひとなのに毎月のノルマは300キロだそうだ!
読み進むと納得することばっかり
僕はチーム競技に向いた人間とは言えない。良くも悪くも、これは生まれつきのものだ。サッカーや野球といった競技に参加すると(子供の時は別として、そういう経験は実際はないけれど)、いつもかすかな居心地の悪さを感じさせられた。 兄弟がいないことも関係しているかもしれないが、他人と一緒にやるゲームにどうしてものめり込めない。またテニスみたいな一対一の対抗スポーツもあまり得意とは言えない。スカッシュは好きな競技だが、いざ試合となると、勝っても負けても妙に落ち着かない。格闘技も苦手だ。 もちろん僕にだって負けず嫌いなところはなくはない。しかしなぜか、他人を相手に勝ったり負けたりすることには、昔から一貫してあまりこだわらなかった。そういう性向は大人になってもおおむね変わらない。何ごとによらず、他人に勝とうが負けようが、そんなに気にならない。それよりは自分自身の設定した基準をクリアできるかできないかーーーそちらの方により関心が向く。そういう意味で長距離競争は、僕のメンタリティにぴたりとはまるスポーツだった。 |
走っているときにどんなことを考えるのかと、しばしば質問される。そういう質問をするのは、だいたいにおいて長い時間走った経験を持たない人々だ。そしてそのような質問をされるたびに、僕は深く考え込んでしまう。さて、いったい僕は走りながら何を考えているのだろう、と。正直なところ、自分がこれまで走りながら何を考えてきたのか、ろくすっぽ思い出せない。 (中略)僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。 |
(中略)まわりの人々に「村上さん、そろそろ走るのをやめた方がいいんじゃないですか。もう歳だし」と忠告されても、僕はとにかくフル・マラソンを完走するという目標に向かって、これまでと同じようなーーーときにはこれまで以上にーーー努力を続けていくに違いない。誰がなんと言おうと、それが僕の生まれつきの性格なのだ。サソリが刺すように、蝉が樹木にしがみつくように、蛙が生まれた川に戻ってくるように、カモの夫婦がお互いに求めあうように。 (中略)だって「ランナーになってくれませんか」と誰かに頼まれて、道路を走り始めたわけではないのだ。誰かに「小説家になってください」と頼まれて、小説を書き始めたわけではないのと同じように。ある日突然、僕は好きで小説を書き始めた。そしてある日突然、好きで道路を走り始めた。何によらずただ好きなことを、自分のやりたいようにやって生きてきた。たとえ人に止められても、悪し様に非難されても、自分のやり方を変更することはなかった。そんな人間が、いったい誰に向かって何を要求することができるだろう? |
こんなに私の気持、いやランナーの気持を代弁してくれている本はないだろう。
自分には書けない、小説家でないから・・・ありがとうございます。
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